はじめに
子育て関係の勉強をしている中で、野口幽香(のぐちゆか)という人物に出会いました。野口氏は日本において本格的な「保育園」を初めて作った一人です。保育士試験の教科書には必ず登場する保育業界のレジェンドです。そしてなんと、彼女は私の住む生野町にも関わりのある人物ということが分かり、驚きでした。
野口幽香のことを中心に、日本の幼稚園保育園制度の歴史を簡単にまとめておこうと思う。
姫路の武家に生まれる
野口幽香(本名 ゆか)は明治維新の2年前、慶應2年に姫路清水(いまの姫路市城東町清水)に生まれた。野口家は姫路藩の下級武士で、代々砲術士をしていた。父、野口野(のぐち いやし)は時代の変化に敏感だったようで、火薬の知識を化粧品に応用して商売を始めたり、福沢諭吉等の最新の知識人の本を読んでいた。5歳で幽香は田島藍水の私塾に入る。藍水は姫路藩校の好古堂(いまの好古園)の教授を経て、維新後に自身の私塾を開いた。宣教師から洗礼を受けたクリスチャンでもあった。ここで漢学や、英語を勉強する。なお、弟の孫市(まごいち)は大阪府立図書館等を設計した建築士である。
時代の先端を行く街・生野へ
明治7年、8歳の時、父は生野銀山に職を得て、一家で生野に移転。生野口銀屋校で学ぶ。生野では近代化する日本の最先端の空気を浴びる。特にフランスからのお雇い外国人・ムーセ一家と深く交流した。ムーセ(ムーシェ)夫婦は明治4年から13年まで生野に滞在している。ムーセは鉱山技師として活躍し、生野鉱山の再発掘と近代化に尽力した。変わったところでは、加古川の水運の発展のため、闘竜灘の採掘を指導したことでも名を知られている。ムーセの屋敷は神子畑に保存・公開されている。
ムーセ夫妻は生野時代に多くの子を設けた。ちょうど、幽香と同い年の男児(シャール)、幽香の弟と同い年の女児(マリー)がいたという。野口家とムーセ家は家族ぐるみの付き合いをする。
屋内の装飾、調度、子供たちの玩具—なに一つとして私の好奇心をそそらないものはありませんでした。ムウセ夫人は、子供の遊び相手になってくれる私を歓迎して、食堂でいろいろ珍しい御馳走をしてくれました[…]
ムウセ夫人は、私をつかまえて、編物を教えようとしました。しかし、十頃の子供には無理で、靴下を編みましたが、どうしても踵のところが、うまく編めません。[…]
そんな風に、ムウセ夫人は、大へん私を可愛がってくれまして、帰国の際に、私をフランスに連れて行くと申したそうですが、両親が断ったので、実現しませんでした。
「貧しき子等に生涯を捧げて」
このように子細な回想を行っている。幽香は後年、生野を再訪問している。
後年、私の身体に多少暇ができましたとき、故郷忘れがたくこの生野へ出かけてみたことがあります。職工長屋のほうは取払いになっていましたが、ムウセの洋館のあとは、病院になっていて、懐かしい昔の頃を偲ぶことができました。
同
お茶の水へ進学
翌明治8年、再び姫路に戻る。城東小を卒業、姫路中学校に進学するが、当時はまだ女子高等教育の素地ができておらず、いじめられるなどして退学。野尻芳春の裁縫塾に通う。父は文部省の官職に就き、明石、神戸と転勤。神戸時代に東京女子師範学校(明治8年開校、今のお茶の水女子大学)の卒業生と会う。その教養と洗練に惚れ込み、東京行きを決意。縁談があったため一度は許可されなかったが、縁談が破談になったのを機に船で東京へ。念願叶い、明治18年東京師範学校女子部(今のお茶の水女子大学)に入学。途中、両親の死去もあったが、成績優秀で明治23年に卒業。なお、明治21年にはキリスト教の洗礼を受けている。
念願の幼稚園へ就職
卒業後すぐに野口は幼児教育の路に進む。フレーベルがドイツのブランケンブルクにkindergartenを設立したのが1837年。三河生まれの僧侶、関信三は明治5(1872)年からの欧米留学中にフレーベル教育を学び、明治7年の帰国後に早速幼稚園の設立準備に取り掛かった。明治9年、東京・湯島に東京女子師範学校付属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)を開設。主任保母に松野クララを迎える。対象は3歳から6歳の男女、定員は150人、開園時間は月~土曜の9時~14時(夏季は8時~12時)。フレーベルの恩物(gabe)を中心とした屋内遊戯を主な教育内容とした。園児は上流階級や富豪の子弟であり、お付きの者と共に、馬車や人力車で通園していたという。野口は卒業後、この付属幼稚園に保母として採用される。
セレブの幼稚園と貧困家庭の託児所
幼稚園制度がセレブを対象にしていて始まった一方、貧しい家庭にこそ幼児教育を、という動きが明治当初からあった。学制が明治5年に発布され普通教育が始まったが、普通の家庭では幼児の面倒を見るのは兄・姉の仕事であったため、小さいきょうだいをおぶって小学校に来る児童が多くいたという。そのため、子守りのための施設を作ることの提言は文部官僚の中からもでていた。そんな中、明治16年には渡辺嘉重が茨城県猿島郡小山村(現・坂東市)の小山東小学校に「子守学校」を設立。赤沢鍾美(あつとみ)は新潟市に自身が明治23年に開校した新潟静修学校に子守りの施設を併設。現在も赤沢保育園として歴史を保っている。
野口の問題意識
野口の問題意識も、子どもを貧困から守ることにあった。野口は師範学校幼稚園での4年間の勤務後、明治27年、華族女学校幼稚園(現在の学習院幼稚園)の設立に伴って同校の祖母として転職する。ここで野口の同僚に森島峰がいた。森島は津田梅子の世話で米国に留学、カリフォルニア幼稚園練習学校にて都市の貧民層に対する無償幼児教育を学んでいた。帰国後は野口と共に麹町で共同生活を送りながら、永田町の学習院に通っていた。いまではこの辺りは東京の中心であるが、当時の東京市は四ツ谷が西の端である。都市の周縁には貧民の住む地区が点在していた。ふたりの近所にある四谷鮫河橋(鮫ヶ橋)はその一つで、後に横山源之助『日本の下層社会』(明治33)で東京の三大貧民窟の一つに数えられた。ふたりは永田町での華やかな教育にあたる一方、近所の貧民の子どもたちが一日中道端で過ごすのを目の当たりにしていた。
貧困家庭のための学校を!
野口と森島は一念発起し、明治33年1月10日、麹町区下六番町27の小さな家を借りて二葉幼稚園を開園。園児6名。その後、明治39年には四谷区鮫ヶ橋に移転、本格的に活動を開始する。園児は250名となる。貧困家庭の子供に教育の機会を与え、親に働く機会を与えることを目的とした。そのために、無料保育、終日保育、乳児保育の3つを実践した。
幼稚園制度との乖離
二葉幼稚園の実践は、鮫ヶ橋周辺の子供と保護者には大変歓迎されたが、制度上の問題があった。当時の文部省令「幼稚園保育及設備規定」(明治33)では保育時間は1日5時間以内、対象年齢は3歳から就学前と規定されていた。すなわち、幼稚園としては法律違反の状態であったのだ。大正5年、二葉幼稚園は「二葉保育園」と名称を改める。
幼保二元化の流れ
二葉保育園をさきがけとして、大阪の愛染橋保育所(明治42年)、倉敷の若竹の園(大正11年)、神戸市出征軍人児童保育所(明治37)など、共働きもしくはひとり親の低所得者を主な対象とした私立の施設が相次いで開園した。それはどれも、二葉保育園同様、既存の幼稚園令の枠に収まらないものであった。そのような動きの中、明治末期には政府の内務省は慈恵救済事業の中に幼児保育事業を位置づける。二葉保育園等も内務所の所管となり、補助金の交付が行われる。いわゆる幼保二元化である。
米騒動と公立保育園の設置
大正7年には富山を発端に全国で米騒動が勃発。貧富の拡大に対して内務省は共働きを推奨。その対応として公立保育園の設置を進める。一方、幼稚園も独自の進化を遂げる。私立幼稚園が増加するなか、これまでの「幼稚園保育及設備規定」の上位に来る基本法の制定を望む動きが高まる。そして大正15年には新「幼稚園令」が施行。日本の教育制度の中で幼稚園は確かな居場所を得ることができた。
このように幼保二元制は制度化された。平成18年にこども園制度ができるまで、約80年間にわたって維持されてきた。
晩年
晩年の野口は昭和10年、徳永恕(ゆき)に二葉保育園を譲り引退する。その後はクリスチャンとして活動する。戦中から戦後にかけて、香淳皇后にキリスト教の講義を行う。その後も皇后との関係は続き、皇后の誕生日には毎年皇居に招かれる。昭和25年84歳で死去。二葉保育園は現在も新宿区南元町で多くの子供たちを育てている。
おわりに
今回の調査を通じて、野口幽香という生野にゆかりがある人物の存在を知ることができた。野口の生野滞在はわずか1年だが、彼女の人生に小さくない影響があったことは確かである。生野での経験が、彼女の保育園づくりに作用を及ぼすしたかどうか、それはもう少し研究が必要である。
参考文献
・野口幽香[談]、神崎清[著]「貧しい子等に生涯を捧げて」(「婦人公論」287号 昭和14年6月)
・貝出寿美子『野口幽香の生涯』(社)二葉保育園 (2001)
・宍戸健夫『日本における保育園の誕生』新読書社(2014)
・姫路文学館特別展「樋口一葉 その文学と生涯」記録集(2020)